生きていく理由はないと思う。
いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまうのだから。他人のために尽くしても、その人も死んでしまうのだから。
強制収容所から必死の思いで生還しても、どうせ死ぬのだ。広島で被爆しながら生きながらえても、どうせ死ぬのだ。
テロリストを撲滅しても、どうせ死ぬのだ。構造改革を断行しても、どうせ死ぬのだ。
ひきこもりから抜け出しても、どうせ死ぬのだ。
「どうせ死んでしまう」ことを知りながら、人はなぜ発狂しないのであろう。
この疑問に対する答えは一つだけである。
それは、パスカルの言うように、「死」を見ないように、考えないようにしているからなのだ。
いま地上に生きている六〇億を超える人々も、あと百年もすればほとんどが消え去ってしまう。
そして、永遠に地上に戻ってくることはない。
こうしたことを想像して周囲の人間風景を眺めてみると、不思議でたまらなくなる。
世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。
どんな悲惨な事件が起ころうとも、どんな理不尽な政治が行われようとも、どんな感動的なドラマが実現されようとも、
やっぱりどうでもいいのだ。みんな、どうせ消滅してしまうのだから。
人生が何の意味もないことは自明であり、その無意味な人生の終局は死であって、(たぶん)永遠の無に突入するのでしょう。
こうした差し迫った大問題に比べると、どんな相談も失礼ながらちっぽけなもの、どうでもいいものに思われてしまうのです。
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