真の究極の勝ち組とは=『生まれなかった者』


▼ページ最下部
001 2016/06/01(水) 01:06:33 ID:c3dn52i5sU
じゃね? 反出生主義という昔からある思想だが、オレにはこう思えて仕方ないのだが、間違っているだろうか?

ただ、生まれさえしなければ。 人生100年を全うするのに必要な、莫大なお金も、ありとあらゆる面倒ごとも、それら全ての気が遠くなるような莫大なコスト&リスクから、完璧に永久に、子孫まで、自由でいられるのだから。

しかも、その子々孫々までの自由を得るのに、なんの資格もコストもかからず、世界中の誰もが、その自由を得られる。
人と争ったり、傷つけたり傷ついたり、苦悩して迷って試行錯誤したり、その全てが一切不要だ。 これが本当にどれだけ、目もくらむほどに素晴らしいことか・・。 

そもそも、人は生まれて、何を求めるか? それは一言で言えば、『満足』であろう。生まれた者は全て、”自分を満足させなければ心の平穏はない”という、いわば『自分へ返済し続ける一生の大借金』を、他人から、強制的に背負わされた状態にある・・。 

この大借金を、自分(たち)だけは完済せんと!という追い込みが、有史以来、個人の、またこの世のありとあらゆる問題の原因にある。
だが、生まれてない者は、一切なんの『借金』も、背負っていない。 まるで、全てのニーズ&ウォンツを満たして、平穏に淡々と毎日を送る大金持ちのように。

結論=生まれてない者、彼こそ真の、本物の勝ち組である。 平穏な彼の日々が破壊される、唯一にして最大のリスク、それは親が、”我が子を持ちたい”という個人的かつ超利己的な欲望を我慢できなかった、その時。

返信する

※省略されてます すべて表示...
025 2016/06/10(金) 17:22:54 ID:X49oeF1wKs
>>24と同意見
>>1のように考えるのはまだ死ぬことが実感できない年齢だからなんだよな
40にもなると周りの人が引退したり亡くなったりすることが出てくるから
自分も死ぬことがだんだん身近になってくる
そうなると価値観がガラッと変わってくる

返信する

026 2016/06/10(金) 22:00:04 ID:EIFAkDVOWk
父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。
・・・すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
・・・産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。

芥川龍之介 河童

返信する

027 2016/06/11(土) 08:53:37 ID:pPbUASp6LA
勝負は同じ土俵にいてはじめて成立するもの。
生まれてこなかったら土俵にさえ立てないのだから勝ち組とは普通考えない。

歳をとったらしく最近、血を繋ぐ意味を考えるようになってる。
こればかりは縁によるもだけど自分の代で血が切れると思うと先祖に申し訳なく思う。

返信する

028 2016/06/11(土) 09:10:15 ID:TV2nz39toI
私たちは、自分の才能や容貌(ようぼう)を選んで生まれてくるわけではありません。
親を選ぶこともできず、また誕生の時を選ぶこともできません。
それらはすべて私の意志にかかわりなく与えられるのです。
人間は自分で自分を生んだわけでも、作ったわけでもありません。
それこそ、こういう人間に生まれたくて生まれてきたのではないのです。それはまったく「思い通りにならない」ことです。
人間として生まれるということには、このようなまったき受動性がつきまとっています。
それは、まさに苦といわれるべきものでしょう。

赤ん坊が呱々(ここ)の声を上げるのは、喜びの声というより、むしろ悲しみの呼び声であるという人もおります。
しかじかの条件を与えられて、さあこれで生死の限り無い苦海を渡りなさいと投げ出されたら、泣き叫ぶよりほかに手はないだろうという解釈です。
それはあまりにも悲劇的な解釈だといわれるかも知れませんが、『大無量寿経』に
「独り生まれ独り死し、独り去り独り来る」
とありますように、勝手に条件を与えられて、さあひとりで生きて行きなさいと投げ出されるのが生まれるということであるならば、
それはやはりむごいことだといわねばならないでしょう。
あながちに、それは誇張だとばかりは言えない真実の一面がそこにあります。

返信する

029 2016/06/11(土) 10:06:59 ID:hpY9gBxXFk
>>28 ようするに、運が全て、ってことだな。圧倒的な運の前では、努力ってせいぜい10%くらいの対抗力しかない。

オレ自身、それを身を持って体験した。今で言う家庭内虐待だが、昭和の当時は学校の先生ですら、まともに取り合ってくれんかった。
ま、面倒臭かったんだろうけどよ

返信する

030 2016/06/11(土) 13:31:26 ID:CRtbyQDJbQ
人生勝ち負けでもないがあえて言えば
>>!みたいなこと考えてるうちは敗者、生まれてきてよかったと言えるようになったら勝者
それだけの話

返信する

031 2016/06/11(土) 16:01:06 ID:picdC6MAAs
現実的に親への恨みつらみと、洞察したような気になってコメントしてしまいそうですが
案外本気でそう考えているのかも知れませんね。
まあ違う意味の裸の王様と言うべきか、どんな衣装よりも裸(無)であれば比べようもない、勝ると言えば勝る。
現実に生きる多くの人から見れば、そのまま見た通りなのでしょうけどね。

返信する

032 2016/06/12(日) 07:45:40 ID:E04.fFoHUU
生きていく理由はないと思う。
いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまうのだから。他人のために尽くしても、その人も死んでしまうのだから。

強制収容所から必死の思いで生還しても、どうせ死ぬのだ。広島で被爆しながら生きながらえても、どうせ死ぬのだ。
テロリストを撲滅しても、どうせ死ぬのだ。構造改革を断行しても、どうせ死ぬのだ。
ひきこもりから抜け出しても、どうせ死ぬのだ。

「どうせ死んでしまう」ことを知りながら、人はなぜ発狂しないのであろう。
この疑問に対する答えは一つだけである。
それは、パスカルの言うように、「死」を見ないように、考えないようにしているからなのだ。

いま地上に生きている六〇億を超える人々も、あと百年もすればほとんどが消え去ってしまう。
そして、永遠に地上に戻ってくることはない。
こうしたことを想像して周囲の人間風景を眺めてみると、不思議でたまらなくなる。

世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。
どんな悲惨な事件が起ころうとも、どんな理不尽な政治が行われようとも、どんな感動的なドラマが実現されようとも、
やっぱりどうでもいいのだ。みんな、どうせ消滅してしまうのだから。

人生が何の意味もないことは自明であり、その無意味な人生の終局は死であって、(たぶん)永遠の無に突入するのでしょう。
こうした差し迫った大問題に比べると、どんな相談も失礼ながらちっぽけなもの、どうでもいいものに思われてしまうのです。

返信する

033 2016/06/13(月) 19:02:07 ID:c1bMcMlMTo
>>32 ・・・だね。
ようするに、客観的な意味はほとんどないのだから、「自分が納得できるかどうか?」が最も大事であって、それしか残らないのかも知れない。

でも、あまり賢くなりすぎてこれに気づかれてしまうと、国家・社会としては、全体をまとめることが手強くなるから、色々とヤりづらくなる。

公教育ってのは、国家にとって国民にはこう在って欲しいという都合の良いステレオタイプに、国民をフンワリと懐柔していくユルイ洗脳装置みたいな面があるからな。 ”知らしむべからず 依らしむべし”って昔から言うでしょ。

返信する

034 2016/06/15(水) 08:33:49 ID:L.PBuSs91s
悲劇のヒロインがいるなW

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:24 KB 有効レス数:34 削除レス数:0





悩み・相談掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:真の究極の勝ち組とは=『生まれなかった者』

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)