例えば「人は死ぬ限り幸福にはなれない」。
ずいぶん身も蓋もないいい様だ(笑)。
しかし本当のことである。私も子供の時分からそう思ってきた。
例えば「革命してもどうせ死ぬ」ともいう。
そう。どんな偉大な革命を成し遂げようが、未曽有の大事業を完遂しようが、不世出の英雄となろうが
「どうせ死ぬ」という冷厳な事実の前には塵芥に等しい。「百億年すれば全部なくなる」のである。
私は幼稚園児のときに、人のこの恐るべき運命に気がついた。
だが、それを素直に周りの大人に話すと厳しく咎められた。
それでも強情に繰り返すと、大人たちは私を諭すべく、あの世だの、霊魂だの、
神様だのを持ち出してくるのでウンザリしてやめた。
本当にウンザリした。そんなことを悩んでいるんじゃないんだよと叫びたくなった。
仮に霊があったとして、その霊がいつか滅ぶのなら論理的には同じことだ。
仮にあの世があったとして、あの世もいつか朽ちるのであればやはり同じこと。
仮に神がいたとして、それと自分が合一できるとしても、その神もいつかは死ぬのなら結局同じなのだ。
私の戦慄はそんな気休めではおさまらないのだ。
もっと恐ろしいのは、神としてであれ、霊としてであれ、天国においてであれ、永遠に生きることだ。
死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのはそれと等しく恐ろしい。
存在という牢獄に永遠に内閉されることは、無に帰すことと寸分も異ならないではないか。
私は絶望し悲嘆した。生まれてしまったことを、存在してしまったことを呪って泣いた。
周囲の愚鈍な大人たちは、突如、何もかも虚しくなって泣き出す私をみて、さすがに霊や来世や神様でお茶を濁すことを諦め、
「そんなことばかり考えていると、まともな人間になれないぞ」と脅した。
この作戦変更は効果覿面だった。「なるほど、そんな風にこの世の中はできているんだな」と得心した。
私はやっとわかったのである。娑婆では本当のことを語っちゃいけないんだ、と。
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