たとえば、イギリスのブランドン・カーターという学者は、一九七四年にディッキーの考えをさらに拡張した論文を発表した。
二人の説を区別するために、ディッキーのほうを「弱い人間原理」、カーターのほうを「強い人間原理」と呼んでいる。
ディッキーは、この宇宙が人間を生むために作られたとは言ったけれども、それが偶然であるか、それとも必然であるかは言わなかった。
だが、カーターは「そもそも宇宙は、人間を生むためにデザインされていたのである」と、その偶然性を否定した。
すでに述べたが、現在知られている物理定数以外の値で、この宇宙が作られていたとしたら、それはもう宇宙とはとうてい呼べないものが
出来上がってしまうことだろう。
電子や陽子だけが浮かぶ海のような“宇宙”は宇宙とは呼べず、したがって今のような宇宙が作られた以上、
それは必然的に生命を生み出さずにはおかれないのだ、というのがカーターの考えである。
●“神の領域”へと踏み込んだ現代物理学
ディッキーとカーター、どちらにしても、宇宙は現在見られるような姿になるのが必然であったとする点では、違いがない。
もちろん、だからといって、こうした宇宙の要請を受けて生まれたのが、地球上のヒトであるというのは言い過ぎかもしれない。
しかし、それが地球ではなくとも、宇宙は結局、知的生命を作り出したのではないか。
そして、それを「宇宙意志」と呼ぶことは許されないだろうか。
このような言い方は、宇宙を誕生させた「創造主」のような存在がいると仮定するようで、正直言って、
日本の物理学者である私としてはあまり気が進まない。
ヨーロッパの知的伝統の背後には、つねに“神”の存在が見え隠れしていて、これもその一環のように思えるからである。
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