東日本大震災の時に、芸能人を含めていろんな人がボランティア活動をしましたよね。
明和では、それを「しょせん自己満足だろ」とか「売名行為でしょ」などとし、
「偽善にすぎない」と切って捨てるスレ・レスがたくさんありました。
まるで、善行の裏にある隠された意図こそが「世界の真実」であり、
それを見抜いた者こそが真理を所有する者であるかのように。
でも、当時、自分はこういう流れに異和感を感じました。
「偽善、偽善」と叫びたてることへの異和。
「偽善」という言葉を繰り返し使う人は、「偽」ではない、
「本物の真実の100%まっさらな善」というものを、どこかで信じてしまっているナイーブな人なのではないか。
「偽善、偽善」と叫べば叫ぶほど、心のどこかで「100%の真善」を渇望してしまう結果になるのではないか。
だから。
愛も「しょせん…(対価を求めるギブアンドテイク)にすぎない」などと言い続けることは、
逆説的に、100%まっさらな「無償の愛」という幻想への飢えをつのらせるだけなのだ。
世の中は、そんなキレイな二分法に分かれていない。
100%の悪もなければ、100%の善もない。清濁併せ持ったものこそが世界の真実の姿だ。
100%の希望にしろ、100%の絶望にしろ、そういった『純粋さ』に逃げようとしないことだ。
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