負けを認めてもいいよ
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001 2014/03/30(日) 22:19:01 ID:8tLtgEK8.k
どうせ勝ち目が無いから負けを認めるだけで良い幸せがワクワクいっぱいで誤ろうかな?
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002 2014/03/30(日) 22:28:12 ID:R85CEEEMVg
003 2014/03/30(日) 22:36:38 ID:esDuvMpeek
1937年 満洲映画協会 設立 (※一部が【東映】に合流)
満州国の国策映画会社。資本金は500万円(満州国と満鉄が50%ずつ出資)。
看板スターは李香蘭(りこーらん)であった。
満映設立以前に満鉄映画部が満州国での映画製作などを行っていた。
初代会長は清朝の皇族金壁東(粛親王善耆の第七子、川島芳子の兄)であったが、
実権は満鉄映画製作所出身の林顕蔵専務理事が握った。
http://ja.wikipedia.org/wiki...満洲映画協会
満映の映画製作実績が上がらなかったため、
満州国国務院は甘粕正彦を2代目理事長に据え
満映の改革に乗り出したとされる。
甘粕事件で服役後、渡仏。
さらに満州へ渡り満州国民生部警務司長などを務め
協和会幹部の傍ら謀略機関の親玉として
悪名を響かせていた甘粕を起用したのは
武藤富男と岸信介とされる。
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004 2014/03/30(日) 22:42:42 ID:esDuvMpeek
[YouTubeで再生]
1956年 東映動画 設立
東映は負債を抱えていた日動映画を買収し、「東映動画」と社号変更させた。
そして『白蛇伝』のために集めたスタッフを送り込み、
『白蛇伝』へ向けた慣らしの意味も込め、短編アニメの制作を開始させた。
建設中の動画スタジオのために、スタッフの養成も始まった。
日動映画を吸収することで、東映はベテランのアニメーター達を手に入れた。
その中には、山本早苗(後、戸田早苗)、大工原章、森康二などがいる。
しかし長編『白蛇伝』のような大がかりなアニメを制作・量産していくためには、
圧倒的に人数が足りない。
そこで美術大学などにアニメーターとなる人材を求め採用した。
この時に東映動画に入社した新人には、
後に『ルパン三世』や『未来少年コナン』の作画監督を務めた大塚康生などがいる。
この東映動画一期生達は、日動映画のベテラン達に指導を受け、
日本アニメの基礎を担う人材へと育っていく。
1957年には東京・東映大泉撮影所の敷地内に動画スタジオが完成。
東映動画は同スタジオに移転した。やがて大泉周辺には、
大小のアニメスタジオが集まるようになっていく。
http://ja.wikipedia.org/wiki...東映動画
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