>>40で書いた前半部分の結論を一言で要約すると、
『死後の世界を信じていない人間は、何のために生きるかという問いに本質的なレベルでは答えることができない』
ということです。
学校時代の勉強の意味の話。
例えば、勉強している最中は気づかなかったけど、後で社会人になってから振り返ってもいい。
「当時は気づかなかったけど、学校の勉強って意外と仕事をする上で役立つな」とか。
いずれにせよ、「何のために勉強するのか」(「したのか」でもよい)に答えるためには、
「学校で勉強した時期」の先の時間の外側の大きな世界で学校の勉強がどういう意味を持つか、
その「関連付け」の作業を行っている。(繰り返しですが、後から遡及的に行うこともありえるでしょう)
で、問題は次です。何のために生きるか?という問いになると、
上の「学校で勉強した時期」という部分が、「オギャーと生まれてから死ぬまでの人生の時間全体」に対応することになる。
つまり、人生という時間全体の先の外側の大きな世界について考えざるをえなくなる。つまり死後の世界です。
>>47さんのお話を、この文脈で私なりの言葉で叙述すると、
「オギャーと生まれてから死ぬまで、とりあえず生きていることに熱中してみろ。
そしたら、死んだ後の未来の世界で、神様の前で審判を受けるときに、初めてあなたの人生の意味がわかるかもしれない」
ということになります。
もちろん、これは死後の世界を信じている場合です。
何のために生きるのかという人間の問いに答えてきたのは、古今東西、宗教と呼ばれるものじゃないでしょうか?
そして、様々な宗教が死んだ後の世界について語るのは、『人々に今生きている意味を示すため』じゃないでしょうか?
自分も含めて、科学万能主義時代に生きる我々の多くは死んだら『無』であると考えていますね。
それは人生のEnd(終わり=目的)を失った荒野に生きているということだと思います。
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